下鴨神社 京都府京都市左京区

下鴨神社 楼門
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下鴨神社について 由緒

正式には、「加茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)」といいます。
式内社、山城国一之宮、二十二社の一社で、旧社格は官幣大社、現在は神社本庁の別表神社となっています。
京都は鴨川を中心に街づくりがなされており、鴨川の下流に祀られているお社というところから、「下鴨さん」「下鴨神社」と親しく呼ばれています。

お祀りされたのは、崇神天皇の7年(BC90)に神社の瑞垣の修造がおこなわれたという記録があり、それ以前の古い時代から祀られていたとされています。これを裏付けるように先年、糺の森周辺の発掘調査で縄文時代の土器や弥生時代の住居跡が数多く発掘されています。

また社伝や歴史書に、お祭、社殿、ご神宝等の奉納などが記録され、『続日本紀』の文武天皇二年(698)には「葵祭に見物人がたくさん集まるので警備するように という命令が出された」という記事があり、このことから奈良時代より前から当神社は大きなお社で、盛大なお祭が行われていたことがわかります。

平安時代には、国と首都京都の守り神として、また皇室の氏神さまとして、特別の信仰を受け、式年遷宮や斎王の制度などが定められていた特別な神社であったことが知られています。
そして『源氏物語』や『枕草子』など王朝文学にしばしば登場するように、この時代の文化、宗教の中心地の一つとして栄えていました。

平安時代末期になると全国に60余箇所もの荘園、御廚が寄進され神社を支えました。
鎌倉時代、室町時代、そして戦乱の世になっていくにつれ、各地の荘園も連絡が次第に絶えていきましたが、代わって国民の信仰が神社を支えていくようになりました。
神殿守(殿司)とよばれる人々が全国をまわって下鴨神社のご神徳を説いていくのもこの頃とされています。

また国の重要な出来事には、かならずご祈願が行われ、江戸時代にも、国と国民の幸福を祈願する神社として、神社の運営のため幕府より領地が寄せれました。

明治初年、全国の神社の代表として官幣大社の首位におかれました。

摂社に美容にご利益のある神社として若い女性に大変人気の河合神社があります。

賀茂祭(葵祭)

今から約1400年前の(540~572)年、凶作に見舞われ飢餓疫病が蔓延した時に、欽明天皇が勅使を遣わされ、「鴨の神」の祭礼を行ったのが起源とされています。
上賀茂、下鴨両神社の例祭であり、この国の祭り中の祭として「枕草子」にも称えられています。
「祇園祭」「時代祭」と並んで「京都三大祭」の一つに数えられます。
時代祭は町衆参加の町の人が主体となる祭りであるのに対し、葵祭は官の祭であったことが色濃く残されています。
応仁の乱の後、元禄6年(1693)までの約200年の間、また、明治4年(1871)から明治16年(1883)、昭和18年(1943)から昭和27年(1952)までの間は、祭の中断や行列の中止がありました。 
葵祭は平安王朝時代の古式のままに「宮中の儀」「路頭の儀」「社頭の儀」の三つに分けて行われ、内裏神殿の御簾をはじめ、御所車、勅使、供奉者の衣冠、牛馬にいたるまで、全てを葵の葉で飾ったことから「葵祭」と呼ばれるようになりました。
「路頭の儀」と「社頭の儀」が知られており、路頭の儀が葵祭のハイライト、都大路の行列です。 
行列は、勅使をはじめ検非違使、内蔵使、山城使、牛車、風流傘、斎王代など平安貴族そのままの姿で列をつくり、午前10時30分、京都御所を出発。そして、王朝風の優雅な列が市中を練り、下鴨神社を経て上賀茂神社へと向かいます。

賀茂祭(葵祭)日程

5月15日

御祭神

西殿:賀茂建角身命 (かもたけつぬみのみこと)
東殿:玉依媛命 (たまよりひめのみこと)

ご祈願について

厄祓い・七五三詣など様々

鎮座地

京都府京都市左京区

境内

下鴨神社 楼門
楼門

下鴨神社 拝殿
拝殿

下鴨神社 御手洗社
御手洗社

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