伊勢神宮 三重県伊勢市

伊勢神宮 内宮 宇治橋

伊勢神宮について 由緒

「お伊勢さん」と親しく呼ばれている伊勢神宮は、正式には「神宮」といいます。
神宮には、皇室の御祖先の神と仰ぎ、私たち国民の大御祖神(おおみおやがみ)として崇敬を集める天照大御神をお祀りする内宮(ないくう)【皇大神宮(こうたいじんぐう)】と、衣食住を始め産業の守り神である豊受大御神(とようけのおおみかみ)をお祀りする外宮(げくう)【豊受大神宮(とようけだいじんぐう)】を始め、14所の別宮(べつぐう)、43所の摂社、24所の末社、42所の所管社があります。これら125の宮社全てをふくめて神宮といいます。

御祭神

内宮 天照大御神(あまてらすおおみかみ)
外宮 豊受大御神(とようけのおおみかみ)

鎮座地

内宮 三重県伊勢市宇治館町
外宮 三重県伊勢市豊川町

内宮・皇大神宮

伊勢神宮 内宮
内宮・皇大神宮

伊勢神宮 内宮 五十鈴川
五十鈴川

伊勢神宮 内宮
参道

内宮の入口である宇治橋をわたり、玉砂利を敷き詰めた長い参道を進むとそこは正に神域と呼ぶに相応しいところです。「心のふるさと」と称される日本の原風景が広がります。
神路山(かみじやま)、島路山(しまじやま)の麓、五十鈴川のほとりに鎮座する皇大神宮は、皇室の御祖神であり日本人の大御祖神である天照大御神をお祀りしています。
現在も皇位のしるしとして受け継がれる三種の神器の一つである八咫鏡(やたのかがみ)をご神体として伊勢の地にお祀りし、国家の守護神として崇める伊勢信仰は平安末期より全国に広がりがみられました。現在でも全国の神社の本宗として特別に崇敬を集めています。

皇大神宮が伊勢の地に鎮まるまで

わが国最初の正史『日本書紀』によると、天照大御神が誕生された時、「ひかりうるわしくして、くにの内に照りとおる」と称えられ、この上なく輝かしい存在として、また神々の世界を治める日の神としても伝えられています。

その後、高天原にいらっしゃる大御神は皇孫瓊瓊杵尊をこの国にお降しになる際に、
「豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂国は、是れ吾が子孫の王たるべき地(くに)なり。宜しく爾(いまし)皇孫(すめみま)、就(ゆ)きて治(しら)せ。さきくませ。宝祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、まさに天壌(あまつち)と窮(きわま)りなかるべし。」
と、この国は天地と共に永遠であるとの祝福のお言葉をお与えになりました。

また、この言葉と共に大御神は宝鏡を授けられ、「この鏡は私を見るがごとくにまつれ」と命じられました。
さらに高天原でお育てになった稲穂を授けられ、米をつくる暮らしが、この国の繁栄と平和をもたらすとお教えになられました。
この御祝福の言葉は「天壌無窮(てんじょうむきゅう)の神勅(しんちょく)」と呼ばれます。

現在、瓊瓊杵尊に授けられた宝鏡は八咫鏡(やたのかがみ)と呼ばれ、天皇が天照大御神をお祀りするご神体となっています。
八咫鏡は代々宮中で天皇ご自身がお祀りされていましたが、崇神すじん天皇の御代になるとお側でお祀りすることに恐れを抱かれ、皇居を出られ、大和の笠縫邑(かさぬいのむら)に神籬(ひもろぎ)を立ててお祀りすることになりました。

そこでは、天皇にお代わりして、豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)が皇大御神をお祀りしていましたが、垂仁すいにん天皇の御代に、倭姫命(やまとひめのみこと)が新たに皇大御神をお祀り申し上げるにふさわしい地を求められることになりました。
倭姫命は大和の国を始め伊賀、近江、美濃の諸国を巡られた後、伊勢の国の度会(わたらい)の地、宇治の五十鈴の川上に到られ、皇大御神のお教えのままに「祠(やしろ)」をたててお祀り申し上げることになりました。
これは、今からおよそ2000年前のことです。

祠は社(やしろ)とも書き、家(や)や屋(や)の代(しろ)という意味で、大きなお祀りに際してその度新たにたてられる建物のことをいいます。
神籬や祠のように臨時にたてられる建物が、神の宮、つまり神宮と呼ばれるほどに大きな規模になったのは、天武天皇から持統天皇の御代にかけてのことと考えられています。20年に一度の大祭、神宮式年遷宮もその時代に始まりました。

荒祭宮(あらまつりのみや)

伊勢神宮 内宮 荒祭宮
内宮の第一別宮 荒祭宮

荒祭宮は、内宮に所属する十別宮のうち、第一に位しています。殿舎の規模も他の別宮よりも大きく、正宮に次ぐ大きさです。
ご祭神は、天照大御神の荒御魂(あらみたま)。神様の御魂のおだやかな働きを、「和御魂(にぎみたま)」と申し上げるのに対して、荒々しく格別に顕著なご神威をあらわされる御魂の働きを、「荒御魂」とたたえます。

延暦23年(804)撰進の『皇太神宮儀式帳(こうたいじんぐうぎしきちょう)』に、「荒祭宮一院 大神宮の北にあり、相去ること二十四丈 大神宮の荒御魂宮と称す」とあり、延長5年(927)成立の『延喜太神宮式(えんぎだいじんぐうしき)』に「荒祭宮一座 大神の荒魂」と記されています。

お祭りは、正宮に準じる第一別宮として特別丁重に行われます。
祈年祭・神嘗祭・新嘗祭の奉幣の儀も、正宮につづき勅使が参向して幣帛が奉られます。また、神饌の種類や数量も正宮とほとんど同じものがお供えされます。

大祭中の大祭とされる式年遷宮も古くから正宮に準じて執り行われています。
応仁の乱のころ、長く中絶の止むなきに至った時代もありましたが、寛永8年(1631)には再び式年御造替の制が復興され現在に至っています。
また、古くからの大祭、神御衣祭が行われるのは、皇大神宮と荒祭宮のみであることからも、この宮の特別な神位がうかがわれます。

外宮・豊受大神宮

伊勢神宮 外宮
外宮・豊受大神宮

伊勢神宮 外宮
外宮・豊受大神宮

伊勢市の中心部、高倉山を背にして鎮まります豊受大神宮(とようけだいじんぐう)は、豊受大御神(とようけのおおみかみ)をお祀りしています。
豊受大御神は内宮の天照大御神のお食事を司る御饌都神(みけつかみ)であり、衣食住、産業の守り神としても崇敬されています。
古くから内宮に対して外宮と並び称されています。
今から約1500年前、天照大御神のお食事を司る御饌都神(みけつかみ)として丹波国(たんばのくに)から現在の地にお迎えされました。
内宮の御鎮座から約500年後のことになります。
以来、外宮御垣内の東北に位置する御饌殿(みけでん)では朝と夕の二度、天照大御神を始め相殿(あいどの)及び別宮の神々に食事を供える日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)が続けられています。

豊受大神宮のご鎮座は『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』や『豊受皇太神御鎮座本紀(とようけこうたいじんごちんざほんぎ)』によると、雄略天皇の御代に、天照大御神が天皇の夢に現れてお告げをされたことによります。
その内容は、「一所(ひとところ)にのみ坐せば甚苦(いとくる)し」ということと、「大御饌も安く聞食(きこしめさ)さず坐すが故に、丹波国の比治の真名井(ひじのまない)に坐す我が御饌都神、等由気大神(とゆけのおおかみ)を、我許(あがり)もが」と教え諭されたことでした。
天皇は夢から目覚められて、等由気大神を丹波国からお呼びになり、度会の山田原に立派な宮殿を建て、祭祀を始められました。これが「御饌殿の創設」、「日別朝夕大御饌祭の創祀」を始めとする御鎮座の由来です。

豊受大神宮は皇大神宮と共に、かつて「二所大神宮」と称され、広大なる御神徳と尊い御鎮座の由緒にもとづいて、殿舎、祭儀のほとんどが皇大神宮と同様であり、皇室の御崇敬もまた同様に捧げられています。
しかし、両宮は決して同格ではなく、皇大神宮こそが最高至貴のお宮で神宮の中心です。

神宮の祭典は、「外宮先祭(げくうせんさい)」といって、まず外宮で祭儀が行われるならわしがあります。豊受大御神は天照大御神の御饌都神ですので、内宮の祭儀に先だって御饌都神にお食事を奉るのです。祭典の順序にならい、参拝も外宮から内宮の順にお参りするのがならわしです。

多賀宮(たかのみや)

外宮の第一別宮。
多賀宮は、外宮に所属する四別宮のうち、第一に位しています。殿舎の規模も他の別宮よりも大きく、正宮に次ぐ大きさです。
ご祭神は、豊受大御神の荒御魂(あらみたま)。神様の御魂のおだやかな働きを、「和御魂(にぎみたま)」と申し上げるのに対して、荒々しく格別に顕著なご神威をあらわされる御魂の働きを、「荒御魂」とたたえます。

多賀宮は、『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』に「高宮(たかのみや)一院 等由気太神之荒御玉神也」とみえ、古くは「高宮」とも称されており、小高い丘の上にご鎮座されることから呼ばれたと考えられます。

多賀宮は今から約1500年前、第21代雄略天皇22年に天照大御神の御神勅によって豊受大御神が丹波の国から御饌都神として迎えられ、豊受大神宮が創立されたのと同時に創建されたと伝えられています。
外宮には多賀宮、土宮(つちのみや)、月夜見宮(つきよみのみや)、風宮(かぜのみや)の四別宮がありますが、多賀宮だけは『止由気宮儀式帳』および『延喜神名式(えんぎじんみょうしき)』に記載され、他の別宮が後年、宮号宣下(きゅうごうせんげ)されたことに比べると、別宮として特別な待遇を受けています。

お祭りは正宮に準じて行われ、祈年祭・神嘗祭・新嘗祭の奉幣の儀も、正宮につづき勅使(ちょくし)が参向して幣帛(へいはく)が奉られます。
また、20年に一度の式年遷宮が、第一別宮のみ正宮と同年に斎行されることからもその重要性がうかがえます。